2011/03/12

 翌朝、結局テレビを見ながら寝ていたので余り寝れなかったのですが、6時前に起床。

 やはり、東名は一部通行止め。中央道は最後まで通行止めだった区間の通行止めが解除されていたので、中央道経由で帰ることを検討しました。東名の由比の通行止めは津波警報が解除されれば、解除されるはずですがそれが何時になるのかは全く分かりません。10時になっても通行止めが解除される見込みがなかったので、中央道経由で帰る決断を下しました。

 中央道からだと、音羽蒲郡IC→豊田JCT→東海環状道→土岐JCT→中央道→高井戸ICという長大な経路。でも、それしか選択肢がありません。東京では様々な混乱が予想されたので、事前に豊川で色々な物資を買います。

 覚悟を決めて母親と別れいざ。とは言っても、東名経由よりも150kmくらい遠いだけですがね。途中、豊田JCTから東海環状道を走ってるときに自衛隊の車両を発見。ああ、これ全部豊川駐屯地から被災地に向かってる車両だ、、、。何台だったか、数え切れないほどの車両が被災地に向けて移動してました。そして、静岡から災害救助犬を乗せた車も。東名が通行止めだから、わざわざ中央道経由で被災地に向かっているのですね。
 中央道に入ると、さらに多くの被災地に向かう車を見かけました。島根の救助隊、移動式医療車輌、NTT西日本の電源車、九州の方の警察犬搬送車両。そして、被災地ナンバーの車輌、、、。みんな、被災地に向かっているのでしょう。もう、なんだか泣けてきました、泣きながら自分自身も車を走らせました。

 途中2回の休憩を経て、自宅に到着したのは5時間半後。走り慣れていない中央道の山道は疲れました。自宅マンションの駐車場はエレベーターが止まっているので、階段で1Fに降り、自分の部屋へ。自分の棟のエレベーターが止まっていなかったので助かりましたが、地震当日は止まっていたようです。

 自宅に入ると玄関の棚は倒れ、自分の部屋も本棚が倒れていたり、PCのモニターが倒れていたり、、、。台所は食器棚が前にせり出してきて中のものは目茶苦茶な状態に。そして、部屋のうちの一つは、中で何かが引っかかって扉すら開かない状況、、、。東京で震度5程度でこの状況だとすると、被災地は本当に酷い状況だったことが推測されます。

 嫁と子供は引き続きお友達の家に避難していたのですが、無事再会、何事もなくよかったです。
 この日は結局片付けをするのはやめ、5日ぶりに家族と過ごしました。実家で母が大量のおにぎりやおかずを作ってくれ持たせてくれたので、非常に助かりました。台所がぐちゃぐちゃでちょっと料理を出来る状況じゃありませんでしたからね。

 テレビは全チャンネル震災に関する情報。ネットも、震災に関する話題ばかりです。2日目になって、地震以上に津波の影響が大きいことが判明し、未だ連絡を取ることが出来ない自治体があるとの情報。被害に遭った人たちの数はこの時点では少なかったものの、不明者にも含まれていない不明者が自治体単位であることを考えると、阪神・淡路大震災を上回る規模の未曾有の大災害であることが判明しました。

東北地方太平洋沖地震 2日目 2011/03/12