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2013年2月18日
SMW2013 【ソーシャルジャーナリズムとソーシャル世論】
カテゴリ:SMW2013 memo【ソーシャルジャーナリズムとソーシャル世論】
2013.2.18 16:40-17:20
佐々木 俊尚
作家、ジャーナリスト
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※私的に取ったメモですので、内容については一切保証しません
・2008年、秋葉原連続通り魔事件 ⇒ 携帯カメラ、Webカメラなどで配信している人がいた、メディアに食い込んでくるような活動ができる ⇒ 本人のブログが炎上(ブログに書いた感想がきっかけ)
・ブログに書かれたいたこと「野次馬根性」的な感覚は否定しきれない、、、
・誰かに何かを伝えたいという点とは別に、自分自身が特別な状況に身を置いている感覚がぬぐえないことは事実
・報じることは、ジャーナリズムがやっていることと個人がやっていることは大差ないのではないか
・ツイッターの普及に伴い、現場実況や写真を掲載する行為が容易に。ハドソン川の件。ツイッタージャーナリズムの到来か?
・報道における姿勢の議論、ジャーナリズムの良心・モラル、ジャーナリズムの世界では議論を続けてきていたが、果たして個人のブログなどに書く内容についてそのような姿勢を問いただすことができるのだろうか。現実的には不可能だろう
・ソーシャルメディアにおけるジャーナリズムとは一体何なのだろう
・東電OL殺人事件、警察は被害者を実名発表、勤務先、出身大学も。取材が進むにつれ被害者の様々な実態が明らかになる。そのことを報道すべきかどうか。週刊誌などは煽り気味にそれらを伝えはじめる。実名を匿名に切り替える新聞も。佐々木さん(毎日)では署名入りでやんわりと伝えたが、そのことに対して批判の嵐が、、、
・なぜ、彼女はこのようなことをしていたのだろうか、取材を重ねるが真相はわからない。
・桐野夏生「グロテスク」事件の被害者の話し、フィクションだが説得力があった
・90年代は劇場型犯罪が多く、ジャーナリズムの花形的な領域だったが、結局伝えきれることはなかった
・清水潔「遺言」フライデー記者が被害者の家族に徹底的にコミット、客観中立報道を超えた場所で描いた衝撃的なノンフィクション
・このような葛藤はこの頃だけの話しではなく、以前からあったものだ
・沢木耕太郎「一瞬の夏」、ボクサーのセコンドにまでなり、事実を描写。しかし、1981年当時はジャーナリズムではないと批判された
・ジャーナリズム:客観中立。でもそれでは何も描けない、読者に響かない
・アルジェリア被害者の実名報道の件、新聞社が主張したが、一般から批判された。
・秋葉原事件、献花台に来る遺族をメディアスクラムで報道、それに対して批判。個人が行った件と、メディアが行った件、はどのように判断されるべきか。有名かどうか、ジャーナリストかどうかではなく、立ち位置の違いなのでは。
・アイドルの指摘、いつもお世話になっている通常の取材の時は問題ないのに、献花台に北自分を取り囲んだメディアは怖かった。そこに人間の関係性が存在していないことがポイント
・取材される側と取材する側の関係性。そこにどれだけ「空間」が共有されているか。
・1980年新宿西口バス放火事件。被害者の兄がプロカメラマンで、たまたまそこを通りかかり写真を撮影。後に大きな批判が寄せられる
・プロの記者は取材対象との間の共有空間を排除することで、報道を日常化していく。
・マスメディアは生々しい映像の「猥褻さ」を骨抜きにして、公共性という甘ったるい生クリームにくるんで視聴者に出す
・アルジェリア事件、被害関係者のブログ、生々しい事実
・報道のソーシャル化。
・グラデーション化する言論。無数の温度差が生まれる日本社会。そこでは、誰もが自分でしか代弁できない
・東日本大震災でありとあらゆる情報が流された、被災地の情報、デマ、誹謗中傷、混乱した情報など
・ソーシャルメディア時代の本質は、「組織」×「組織」ではなく、「個」×「個」の関係性と捨象されること
※私的に取ったメモですので、内容については一切保証しません
・新聞批判:誰が書いているのかわからない、新聞社名よりも個人記者名を信頼する
・個人の信頼度は何に担保されるのか:1専門性、2人間としての生々しさ、3言論の透明性
・読む側からしたら、新聞記事もブログも変わらない。常にソースは問われる
・メディア空間は、発信者から見れば多重の円環構造になっている[photo]発信者:反応者:傍観者:無関心者
・だいたい、インターネットの言論はまとまらない。批判に批判を重ねる形で議論が進み、どちらかには落ち着かない。
・「インターネットでは案外正義が勝つ」と言っている
・重要なのは、議論の外側。傍観者や無関心者がどう思うのか。バトルが注目されがちだけど、それ自体は大した話しじゃない
・発信者視点ではなく、俯瞰的に見る
・記事と配信が統合された新聞ビジネスから、コンテンツと配信プラットフォームが分かれた時代へ
・垂直統合→水平分離ではない。支配的プラットフォームの時代。
・データジャーナリズム、インフォグラフィック、Webグラフィック、そのような今までになかったものにもジャーナリズムは影響を受ける
・プラットフォームを巡って、ネット企業とメディア企業が争っている。その際に重要なのは、プラットフォームの中立性、無思想的であるべき
・個人の発言なんて中立になり得ない。受け手の個人のバイアスを想定に入れて受信する
・ツイッターでの発言は中立じゃ無くてもよい、でもツイッター自体は特定の発言を制限したりしてはいけない
・「素人だから中立になれる『中立です』と言ったとたんにプロになっちゃう」ドワンゴの川上さん
・素人性がイデオロギーを排除する
・素人が作っているから面白い、ニコニコ動画をそういう方向に持って行きたいようだ
・ジャーナリズムは、プラットフォーム上のモジュールとして、あるいはモジュールとモジュールの相互作用を起こす
・『志』としてのジャーナリズムから、コミュニケーションとしてのジャーナリズム、「場」としてのジャーナリズムへ
投稿者 ymkx : 2013年2月18日 17:54 |